創作界における「有産」と「無産」
創作界隈を見ていると、定期的に 有産
や 無産
という言葉を目にすることがある。主に人をカテゴライズする際に使われる言葉であり、絵や小説、音楽など、新しいクリエイティブを産み出す人を表す 有産
と、そうではないもの、つまりコンテンツを消費する一方で自ら何も産み出さない人を 無産
と呼ぶ。いわばネットスラングのようなものであり、 無産者階級
とは何ら関係ない言葉だ。
基本的に、創作界隈では満場一致で有産であることは良いことだとされる。一方で無産の存在をどう見るかは各人によってそれぞれであったり、クラスタによって見解が違っている。これはあくまでも傾向の話でありステレオタイプを助長する意味合いは無いが、私が見てきた中では大手 IP の二次創作界であれば無産も消費者の一人でありむやみに足蹴にすべきではない、という考え方であったりするが、一部の IP 、特に検索避けなどを行いなるべくクローズドに活動を行うことが美徳とされる文化圏においては無産は有害で排除すべき存在として扱われていることもある。
また、得てして無産であることが悪だとされるコミュニティにおいては、どんな形であろうと創り出していれば有産とされるわけではない傾向がある。基本的にはアウトプットが “一定のレベル未満” であれば原作やカップリングへの侮辱行為だと見なされ、無産と同等、あるいはそれ以下である 無能な働き者
に分類されたりもする。
創作界隈と社会
ここまで読んで、あなたは 無産
についてどのような感想を抱いただろうか。 同じコンテンツが好きな者どうし仲良くすべき!
と考える人が多いのではないだろうか。
私も以前はそう思っていた。しかし、生成 AI 問題を考えるうちにそうは思えなくなってきてしまったのだ。生成 AI 問題に関しては別途記事にしたので、そちらを参照してほしい。
生成AI問題に見る「特権意識」と「無産は不要」そしてオタクコミュニティの現実
キーとなるのはおそらく 創作活動への熱量
ではないかと思う。前述の記事の通り、創作界隈のようなコミュニティにおいては創作を行うことそれ自体がほぼイコールで正しい行いとされる傾向がある。こう言うといびつに思えるかもしれないが、実は私達が生きている社会と何ら変わりないものだ。
社会において働くことは義務だ。すべての人々が働き国家が経済的・文化的に成長することで、国民はより良い生活を手に入れることができるためであり、これは憲法上も 勤労の義務
として定義されている。
同様に創作界隈においても 何かを創り出すことは義務 のような側面がある。なぜなら何かを創り出すことで以下のような効果が見込まれるからだ。
- 今までリーチしていなかった層にも作品が広まる可能性が高まる
- 既に作品を好きな人達の作品への帰属意識が向上し、消費を促進する可能性が高まる
- 界隈に人が増えることにより、作品が新たな展開を行いやすくなり、クリエイターに直接的な利益をもたらす可能性が高まる
この構図は社会となんら変わりないものであり、創作界隈において有産であることが良い行いだとされるのは至極当然のことだろう。
「無産者」は悪なのか?
有産が様々な価値をもたらし、創作界隈において重要な存在であることはわかった。だが、だからといって無産を不要であったり有害であると断じてしまうのは論理的ではない。
そもそも無産の定義がコミュニティによって異なるので、ここでは 界隈にプラスの影響を与えていない者
を無産として扱うこととする。
プラスの影響こそ与えていないにせよ、マイナスでなければ問題ないと思う人も多いかもしれない。しかし、プラスになるものが何一つない以上、何か少しでも行動をした時点で人によってはマイナスになってしまうのもまた事実だ。
例を元に考えてみよう。とある無産が有産クリエイターの描いた絵を見て この絵好きです!
と言ったとする。それだけでも以下のような影響が考えられるのだ。
- 感想が気持ち悪くて界隈の評判を下げてしまうパターン
- クリエイター側が感想など求めていないパターン
- 褒められたクリエイター以外のクリエイターが劣等感を感じてしまうパターン
別にこれらは無産だろうと有産であろうと発生するものだが、有産であれば日頃の創作活動でプラスの効果をもたらしているためマイナスの影響が発生したとしてもトータルではプラスのままだ。しかし無産は何をしてもマイナスにしかならない。
これは創作界隈だけに限らず現実の社会においても同様だ。一般的に社会においては苦労して労働をして賃金を稼いでいる人が模範的とされる一方、一見楽なことしかしていないように見える人は叩かれがちだ。例えば 無産は何も産み出さず消費だけしていてズルい!
と 政治家は居眠りしているだけで高い給与をもらっていてズルい!
というのはかなり似た構図なのではないだろうか。私は政治家を楽な仕事だと思っていないしそのようなことを言うつもりはないが、あくまでも “世間の声” としてはそうだと思う。
このことを踏まえると、果たして本当に 同じコンテンツが好きな者どうし仲良くすべき!
と言えるだろうか?正当な対価を払っていない存在がコンテンツをただ享受していることに嫌悪感を感じたりはしないだろうか。
無産と当事者意識
無産は不要だという人の主張の本質は 界隈を構成する人物としての自覚を持て ということなのではないかと思う。彼らにとって無産はフリーライダーにしか見えないのだ。いわば 税金を納めてない人間が社会に口出しするな というところだ。自分が界隈の構成員であるという自覚があるならば、義務である創作を行い有産になれ、という思想だ。これは普通に筋が通った話だと思う。実際、改めて考えてみると自分が無産として創作界隈に居続けることに強い違和感を感じるようになった。
「無産は不要」に対する反論の無意味さ
このような話をしているとよく そんなことない!無産だって必要だ!
という意見を目にすることがある。しかしそれは本当だろうか。
無産だって同じ作品を好きな仲間だよ 論
作品を好きという意味ではそのとおりだと思うが、だからといって創作界隈に居る必要があるかというと疑問が残る。別に作品を応援したり二次創作コンテンツを見るのは匿名でもできるわけで、そこに人格を表す必要性はないように思える。今だとマシュマロ等匿名でクリエイターにメッセージを送るシステムも確立されている。
創作は消費者あってこそなので無産も大切なお客様 論
ぱっと見一理あるように思えるが、 有産だって消費しないわけではない。 別に有産であろうと他のクリエイターの作品は消費するのだ。
そもそも、同人という文化自体がクリエイター同士が交流するために産まれた側面がある。その文脈から考えると無産の存在のほうが異端だと言える。
作品への感想も生産活動だよ 論
おそらく一番筋の通った理論だと感じる。作品への感想も生産活動なのだとすれば、無産に分類される人の数は大幅に少なくなるだろう。
ただやはりこれも当人の人格を表す意味合いが薄いように感じられる。前述の通り、今や感想は匿名で送れる時代になっており、わざわざ名乗る必要性が感じられないように思える。
「創作界隈に無産は不要」は事実。受け入れつつ、どう生きるか
では、何も創り出せない無産はどう生きるべきなのか。自分なりにいくつか考えてみた。
確実にマイナスにならない活動をする
無産が創作界隈に身を置くにあたって問題になるのは、界隈にマイナスの影響を与えてしまう可能性があることだ。ならばとにかく確実にマイナスにならない行動のみを行うのが好ましい。例えば以下のようなことだ。
- 感想が欲しいと明言しているクリエイターのみに感想を送る
- 身だしなみや行動に気をつけ、界隈のイメージダウンに繋げないよう努力する
- とにかく敵を作らないように心がけ、平和路線で行く
自分は 3
が 適切にこなせなかった ため、この路線は厳しいと感じた。だが一般的には最も適切な選択肢になると思う。
一切自我を持たず消費に徹する
現状自分に一番適切だと考えているのはこれだ。
無産は有産と違い、自我を持つことでプラスの効果を界隈に与えることができない。であればまず自我を持たないようにし、あくまでもコンテンツの消費者に徹するというのが適切に思える。もちろんこれでは創作界隈にプラスの影響を与えることはできないが、自我を持つことでマイナスの影響を与えるよりははるかにマシだろう。
作品を追いイベントなどにも参加する、だが一切言及はせずあくまでも金銭的支援に留めておく。こうすれば、少なくともマイナスの影響は与えない。
創作界隈に関わることをやめる
個人的にはこれも有力だと感じている。
そもそも有産になれない時点で創作界隈に関わろうと考えること自体が間違いなのだ。向いていないのであれば潔く立ち去るのも有力な選択肢だ。自分がいなくとも世界は回るのだ。